1. HOME
  2. ブログ
  3. 活動履歴
  4. 「認知症にならない人生」ではなく、「最後まで尊厳をもって生きられる人生」を

「認知症にならない人生」ではなく、「最後まで尊厳をもって生きられる人生」を

多くの人が認知症を恐れている。
「自分が自分でなくなってしまうのではないか」「家族に迷惑をかけるのではないか」「何もわからなくなってしまうのではないか」。認知症という言葉には、いまなお強い不安と偏見がつきまとっている。

僕は20年以上、在宅医療に携わってきた。
在宅医療の対象になるのは、病院や診療所への通院が難しくなった人たち。高齢で運動機能が低下した人、さまざまな障害を抱える人、終末期のがん患者など、その背景はさまざまだ。
なかでも要介護状態となり、自力で通院することが難しくなった高齢者の多くは、程度の差こそあれ認知症を抱えている。
ただ、在宅医療を通じて認知症の人たちの日常生活を長い間見てくる中で、気づいたことがある。
認知症になった人の多くは、私たちが想像しているほど不幸には見えない。
もちろん、初期には多くの人が強い不安を感じる。認知症によって生活に困難も生じる。介護する家族にも負担が生じる。疲弊する家族もいる。
しかし一方で、特に高齢の場合には認知症をその人の人生の一部として、ごく自然に受け入れている家族もいる。「認知症になってしまった」というより、「年を取って、少しずつできないことが増えてきた。その部分を家族で補いながら暮らしている」。そう見える家庭も少なくない。

僕の祖母もいわゆる認知症だ。(確定診断はされていないが)
和歌山の郊外の小規模な高齢者施設で暮らしている。
それでも、彼女はいつも幸せそうに見える。
ときどき僕の名前を弟の名前と混同する。
しかし、僕が彼女にとって大切な人だということはわかっている。
彼女が「認知症であるか、認知症でないか」という診断そのものは、僕たちの関係にとってそれほど重要ではない。
そして、おそらく彼女自身にとってもそうなのではないかと思う。
食事を楽しむ。人との会話を楽しむ。デイにも楽しそうに出かける。
忘れることは増えても、彼女の人生から喜びがなくなったわけではない。

今回、香港で開催されたBrain Health Forum 2026で、僕は「Dementia is Preventable: Addressing the Mid-life Brain Opportunity」というテーマで話をする機会をいただいた。
テーマは「認知症予防」。
でも僕は、医学的に「どうすれば認知症を防げるのか」だけではなく、もう少し大きな問いについて考えてみたいと思った。
そもそも私たちは、認知症予防によって何を「防ごう」としているのだろうか。

■認知症の45%は予防・遅延できる可能性がある
認知症予防については、この十数年で科学的な理解が大きく進んだ。
2024年のLancet Commissionは、認知症の約45%が、14の修正可能なリスク因子への対応によって予防または発症を遅らせられる可能性があると報告している。
高血圧、LDLコレステロール、糖尿病、喫煙、運動不足、肥満、過度の飲酒、難聴、うつ、社会的孤立、視力低下など、いずれも身近なものだ。
少なくとも認知症は「年を取れば運命的に起こるもの」ではない。
私たちにできることはかなりある。
特に中年期(Mid-Life)は重要だ。
血圧が上がり始める。LDLコレステロールが高くなる。糖尿病が顕在化する。運動量が減る。難聴が出てくる。これらのリスクが顕在化し、かつ医療的に介入できる時期だからだ。
しかし、ここで一つ認識しておきたことがある。
認知症は、ある日突然始まるわけではない。

■認知症は白か黒かではない
認知症とは「昨日までは正常だったけど、病院に連れていったら認知症と診断されたので、今日からこの人は認知症」というようなものではない。
私たちの脳は身体は、長い時間をかけて少しずつ変化していく。
認知機能も同じだ。
その変化は連続的なグラデーションだ。
生まれたときの「純白」から、徐々にグレーの度合いが濃くなっていく。
人によっては比較的ゆっくり低下する。人によっては速く低下する。
そしてあるレベル(Threshold)を下回ると、その認知機能の低下によって日常生活に支障が生じるようになる。
そのThresholdを下回った状態を、私たちは臨床的に「認知症」と呼んでいる。
つまり、認知症予防の本質は「認知症になるか、ならないか」という単純なものではない。重要なのは、認知機能低下のtrajectory、つまり進行の軌道をできるだけ緩やかにすることなのだと思う。
同じように年を取っても、認知機能の低下が少し緩やかになれば、日常生活に支障が出るラインを超える時期を5年、10年と先送りできるかもしれない。もしかすると、寿命を迎えてもThresholdの上側に居続けることができるかもしれない。
これによって、その人の人生は大きく変わる。
だからこそ中年期に顕在化するリスクへの対応は非常に重要だ。
しかし40歳や50歳になって突然認知症予防を始めるというのは合理的なのか。
教育、運動、身体活動、社会とのつながり、循環器の健康。
その人の「脳の予備力」を維持するプロセスは、もっと若いころから始まっている。
中年期は予防のスタート地点ではない。
それまで積み重なってきたリスクが見えるようになり、軌道修正できる重要な窓(Window Period)なのだ。
小さな違いでも、それが20年、30年積み重なれば、人生後半のtrajectoryは大きく変わる可能性がある。
ちりも積もれば山となる。一日一日の生活を丁寧に重ねていくことが大切なのだ。

■100歳まで生きる時代に「認知症ゼロ」だけを目標にできるか
もう一つ考えなければならない要素がある。
「長寿」だ。
100歳前後の高齢者を対象とした国際的な研究では、認知症の有病率は非常に高くなる。
もちろん、100歳になっても認知症にならない人はいる。
認知症は決して避けられない運命ではない。
しかし人生が80年から90年、そして100年へと延びていけば、「一生涯、認知症にならない」ということ自体が、生物学的・確率的に難しくなっていく のもまた事実だ。
だとすれば、社会全体の目標を単純に「認知症をゼロにする」と設定することには無理があるのではないか。
もちろん、できる限り発症を防ぐ。できる限り遅らせる。
それは重要だ。
しかし、それは「人生100年時代の認知症予防」への答えになるのだろうか。

■「予防できる」が「自己責任」になってはいけない
「認知症は予防できる」というメッセージには副作用もある。
予防できると強調すればするほど、
「では、認知症になったのは本人の努力が足りなかったからなのか」
という発想につながりかねない。
実際、認知症リスク低減に関する研究でも、予防情報が本人の自己責任感や罪悪感につながる可能性が指摘されている。
これは非常に危険だと思う。
認知症予防は、人々に選択肢を与えるためにある。
人を責めるためにあるのではない。
認知症になった人は、予防に失敗した人ではない。
このことは明確にしておく必要がある。

■認知症は一つの病気ではない
もう一つ、大切なことがある。
認知症は、厳密には「病名」ではない。
アルツハイマー病、レビー小体病、脳血管障害など、さまざまな原因によって認知機能が低下し、それによって日常生活や自立した生活に支障が生じている「状態」、つまり症候群だ。
ここで重要なのは、「日常生活への支障が定義に入っていること」である。
認知機能テストのスコアだけで認知症と決定されるわけではない。
同じ程度の認知機能低下があっても、生活環境によって「障害」の大きさが変わる。
例えば、難聴がある。足腰が弱い。薬が十数種類あり、服薬方法が複雑。一人暮らしで、相談できる人がいない。
そんな環境では、軽度の認知機能低下でも生活はすぐに破綻するかもしれない。
一方で、補聴器を使い慣れており、身体を動かす習慣があり、服薬がシンプルに整理され、家族や地域の人とのつながりがある。
そういう環境なら、同じ認知機能であっても、自立した生活をずっと長く続けられるかもしれない。
つまり、認知機能低下と生活障害は同じものではない。
障害は脳だけが作るのではない。
その人を取り巻く環境との関係の中で生まれる。
逆に言えば、脳そのものを完全に元に戻せなくても、環境を最適化することで生活障害を小さくすることはできるはずだ。
この環境因子への介入=ICFの概念が、自立支援、つまり介護や在宅療養支援の中核のコンセプトでもある。(あいにくそう認識されていない医療者も多いと思うが)

■「認知症の専門家」が認知症になって初めてわかったこと
長谷川和夫先生をご存じない方はおられないだろう。
長谷川先生は、日本の認知症医療を切り開いた第一人者であり、「長谷川式認知症スケール」の開発者としても知られている。
長い間、認知症を研究し、認知症の人を診療してきた。
その長谷川先生自身も、晩年に認知症になられた。
そして、医師として理解していた認知症と、自分自身が認知症になって経験する世界との間には、違いがあることに気づいた。
長谷川先生は、自分が医師として患者に勧めてきたデイサービスにも実際に通った。
スタッフは親切だった。自分のことも一人の人間として理解してくれた。
しかし、退屈だった。
自分としては、あまり行きたいとは思わなかった。
それでも、妻が休めるのであれば、それもいいかと思って通ったという。
そして長谷川先生は晩年、『ボクはやっと認知症のことがわかった』という本を書いた。
このタイトル、非常に重いと思う。
生涯をかけて認知症を研究してきた専門家が、自分自身が認知症になって初めて「わかった」とおっしゃったのだ。
病気について知ることと、その病気を抱えて生きる人の人生を知ることは同じではない。
医療者が「これは良いケアだ」と思うものが、本人にとって「良い生活・人生」につながるとは限らない。
これは、私たち医療者が忘れてはいけないことだと思う。

■日本の認知症基本法が目指すもの
日本では2024年、「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」が施行された。
この法律は非常に興味深い。
目標は単に「認知症患者を減らすこと」ではない。
認知症の人が尊厳を保持し、希望を持って暮らすこと。
本人の意思が尊重されること。
社会に参加できること。
そして、認知症の有無にかかわらず、ともに暮らせる社会をつくること。
つまり政策のゴールそのものが、「認知症にならない社会」から、「認知症になっても生きていける社会」へ広がっている。
これは非常に重要な転換だと思う。
そして、日本が、これを政策レベルで言語化したことを、少しだけ誇らしく思う。ぜひとも日本社会に実装していきたい。

■認知症になっても、改善できるものはある
認知症になったからといって、すべての機能が一方向に低下していくわけでもない。
例えば運動。
認知症の人を対象とした研究でも、適切な運動によって筋力、移動能力、日常生活機能、そして認知機能そのものにも改善がみられることが報告されている。
もちろん、運動によって認知症が治るという意味ではない。
脳の病気そのものは進行するかもしれない。
しかし、たとえ「脳」の機能は低下しても、「その人」はもっと強くなれる可能性がある。
転ばずに歩けるようになる。
動きやすくなる。
自分でできることが増える。
自立した生活をより長く続けられる。
いずれも重要なことだ。
認知症という診断がついた瞬間に、「予防」が終わるわけではない。
その先にも、維持できるところ、回復できるところ、強化できるところはたくさんあるのだ。

■認知症予防を4段階で考える
僕は、「認知症予防」をもっと広く、4段階で考えるべきではないかと思っている。
第一は「発症を予防する、あるいは遅らせること」。
若いころから脳と身体の予備力を高め、中年期には高血圧、脂質異常、糖尿病、運動不足、難聴などに適切に介入する。
第二は「早期に発見し、適切に介入すること」。
現在はバイオマーカーや疾患修飾薬も登場し、早期診断の意味も変わりつつある。
第三は「認知症になった後の生活障害を予防すること」。
身体機能を維持する。転倒を防ぐ。低栄養を防ぐ。せん妄を防ぐ。不要な入院を防ぐ。そして、本人が社会とのつながりを失わないようにする。
第四は「苦痛を予防すること」。
病気が進行し、機能低下そのものを止められなくなったとしても、医療にできることがなくなるわけではない。
痛みを防ぐ、不安を和らげる、望まない入院や過剰な医療を避ける、慣れ親しんだ場所で愛する人たちと過ごせるようにする、家族を支える。
低下を防げなくなっても、苦痛は防ぐことができる。
これもまた、広い意味では「予防」なのではないかと思う。

■私たちは、何を「防ぎたい」のか
最初の問いに戻る。
私たちは「認知症予防」によって、いったい何を「防ごう」としているのだろうか。
認知症そのものを防ぐ。これはもちろん重要だ。
しかし、その先には、生活障害を防ぐ、依存を防ぐ、苦痛を防ぐ、社会から切り離されることを防ぐ、本人が本人でなくなったかのように扱われることを防ぐ、という目標が続く。
そして究極的には、その人の尊厳が失われることを防ぐ。
これが一番大切なのではないだろうか。
私は、認知症予防を否定したいわけではない。
できることは、できるだけ早く始めるべきだと思う。
若いうちから身体を動かす。タバコを吸わない。血圧や糖尿病、コレステロールを適切に管理する。聴力や視力を守る。人とのつながりを保つ。
中年期になってリスクが顕在化してきたら、都度きちんと軌道修正する。
これにより認知機能低下のスピードを少しでも緩やかにし、認知症になる時期をできるだけ先に延ばす。
間違いなく重要だ。
しかし同時に、認知症にならないことだけを、人生の成功条件にしてはいけないとも思う。
認知症になったとしても、その人の人生は続く。
できることも残っている。
新しくできるようになることさえある。
好きなものを食べて、おいしいと思う。
家族と話して、楽しいと思う。
誰かの顔を見て、安心する。
散歩をする。
音楽を聴く。
誰かに必要とされる。
誰かを大切に思う。
認知機能の一部が失われても、人間としての営みがすべて失われるわけではない。
Brain Health(脳の健康)を大切にする社会とは、認知症と診断される人を少なくすることだけではないはずだ。
認知症になっても、その人らしく生き続けることのできる社会であるべきだと思う。

■認知症の「予防」から、人生を守る「予防」へ
今回呼んでいただいたのは、Brain Health Forum、講演のテーマは「Addressing the Mid-life Brain Opportunity」だった。
確かに中年期は重要な予防的介入のタイミングである。
しかし、私が伝えたかったのは、中年期に認知症リスクを減らしましょう、ということではない。
それは人生を一本の長いtrajectoryとして考えてみること。
若年期は、できるだけ大きな身体的・認知的な予備力をつくる。
中年期は、顕在化するリスクに対し、最適な軌道修正をする。
高齢期になって認知機能が低下してきたら、その進行をできるだけ遅らせる。認知症と診断されたとしても、身体機能を維持し、生活障害を最小限にする。さらに障害が進行したら、苦痛や不要な医療を減らし、その人が大切にしてきたものを最後まで守る。
人生のどの段階にも、私たちにできる「予防」がある。

Prevent dementia.
Prevent disability.
Prevent suffering.
Prevent the loss of dignity.

認知症を防ぐ。
障害を防ぐ。
苦痛を防ぐ。
そして何より、尊厳が失われることを防ぐ。

日々の在宅医療を通じて、日々痛感しているのが、この最後の一行だ。
この最後の予防こそが、すべての段階を貫く最も重要な目的なのではないか。

■「認知症にならない人生」ではなく「最後まで尊厳をもって生きられる人生」を
医学は長い間、病気を見つけ、治すことを目的として発展してきた。
そして今、認知症についても、血液バイオマーカーなどによってより早期に病気を捉え、疾患修飾薬によってより早く介入できる時代に入りつつある。
大きな進歩だ。
しかし、診断できることと、その人を幸せにできることは同義ではない。
認知症を早期診断するのであれば、その診断によって本人の人生がよりよくならなければならない。
そして、そのための手段は薬物療法だけではない。
将来について本人と話す。
生活を整える。運動する。栄養を守る。聴力や視力を補う。家族を支える。地域とのつながりを維持する。
そして、本人が自分の人生について意思決定できる時間をできるだけ長くする。
Diagnosis should open doors, not close them.
認知症の診断は、その人の可能性を閉ざすものではなく、本人が必要とする支援への扉を開くものでなければならない。
これは認知症だけの話ではないと思う。
私たちは、病気を「ある/ない」で人間を分類しがちである。
健康か病気か。正常か異常か。自立か要介護か。認知症か非認知症か。
しかし実際の人間は、そんなに単純ではない。
私たちは全員、少しずつ老いる。少しずつ筋力が落ちる。少しずつ耳が遠くなる。少しずつ忘れる。そして、誰かの助けを借りながら生きるようになる。
そこに明確な境界線があるわけではない。
だからこそ、医学の役割も「境界線を越えさせないこと」だけではないはずだ。
境界線を越えても、生活が続くようにする。
できないことが増えても、できることを支える。
病気が進行しても、その人にとって大切なものを守る。
そこまで含めて医療であり、ケアなのだと思う。

■祖母に思うこと
私は祖母に会うたびに、このことを考える。
彼女は認知症である。
以前ならできたことが、できなくなっている。
忘れることも増えた。
私の名前と弟の名前を混同することがある。
医学的に評価すれば、認知機能は確かに低下している。
しかし、彼女と一緒にいると、「認知症」という診断名が急にそれほど重要ではなくなる。
私の名前が出てこなくても、私を見ればうれしそうにする。
一緒に食べれば、おいしそうに食べる。話しかければ満面の笑みで返してくれる。他の入居者と会話を楽しむ。
彼女には彼女なりの一日があり、彼女なりの楽しみがある。
そして、何より、彼女は彼女のままだ。
僕にとってはかけがえのない大切なおばあちゃんだ。
これは認知症を美化したいという話ではない。
認知症によって深刻な苦痛を経験する人もいる。
介護によって疲弊する家族もいる。
行動・心理症状、転倒、低栄養、せん妄、事故、経済的問題など、現実には多くの困難がある。
だからこそ予防が必要だし、医療も介護も必要である。
しかし「認知症になること」と「不幸になること」を同義語にしてはいけない。
この二つを結びつけてしまえば、私たちは認知症を恐れるあまり、認知症になった人そのものまで否定してしまう。
そしてそれこそが認知症に対する偏見を生み出す。

■本当に守りたいものは何か
人生100年時代。
私たちは、これまで以上に長く生きる。
その結果として、認知症とともに生きる人も増えていくだろう。
だからこそ必要なのは、二つのアプローチを同時に進めることだと思う。
一つは、認知症になるリスクをできるだけ減らし、発症をできるだけ遅らせること。
もう一つは、認知症になっても、それによって人生そのものが壊れない社会をつくること。
この二つは対立するものではない。
予防か共生かではなく、予防もする。そして共生もする。
若いうちから健康を守る。中年期にはリスクに介入する。認知症になっても機能を守る。環境を整えて生活障害を小さくする。病気が進行しても苦痛を最小限に減らす。
そして、どの段階においても、その人の意思、関係性、社会参加、そして尊厳を守る。
これが、「人生100年時代の認知症予防」なのではないかと思う。
認知症を予防できるなら、予防したい。できるだけ遅らせたい。
しかし、それでも私たちの誰かは認知症になる。
そのときに「予防に失敗した」と考える社会にはしたくない。
認知症になっても、その人にはまだ人生がある。家族との関係がある。喜びがある。できることがある。そして、その人自身がそこにいる。

今回の講演で伝えたかったことを一言でまとめるならこうなる。
認知症を防ぐことは目的ではない。
私たちが最後まで、自分にとって価値のある人生を生きるための手段の一つである。
認知症を防げるときには防ぐ。
障害を防ぐ。
苦痛を防ぐ。
そして何より、その人の尊厳が失われることを防ぐ。
その先にあるものこそが、本当のゴールなのだと思う。

A life worth living is the goal.
最後まで「生きるに値する人生」を守ること。
これが、僕が考える認知症予防だ。

佐々木淳

793722678 1072936398476879 1052098153205475616 n

関連記事