「事故を防ぐ」だけではない—在宅医療における安全の再定義
医学書院『medicina』の特集「プライマリ・ケアにおける患者安全・質改善の地平線」に、「在宅医療における安全の再定義」というタイトルで寄稿した。企画は綿貫聡先生。
今回、特集全体を読んでみて、非常によく練られた企画だと改めて感じた。
「患者安全」「医療安全」という言葉から、多くの人がまず思い浮かべるのは病院での医療事故防止だろう。誤薬をなくす、転倒を防ぐ、感染を防ぐ、診断の遅れを防ぐ。もちろん、これらが重要であることは言うまでもない
しかし、医療が病院の中だけで完結しなくなった現在、特に超高齢社会のプライマリ・ケアにおいて、「安全」を単純に「事故を起こさないこと」と定義することには限界、そして弊害がある。
外来では、限られた時間と情報の中で診断の不確実性と向き合わなければならない。在宅では、医療者が常時管理できない生活空間で、転倒、誤嚥、服薬、独居など無数のリスクと共存する。さらに高齢者では、あるリスクを下げるための介入が、別のリスクを増やすことも珍しくない。
転倒を防ぐために歩かせなければ、短期的な転倒リスクは下がる。しかし、活動量低下、筋力低下、廃用、閉じこもりを通じて、長期的には生活機能を失う可能性が高まる。
誤嚥を防ぐために食事を厳しく制限すれば、肺炎のリスクは下げられるかもしれない。しかし同時に、食べる楽しみ、栄養状態、本人らしさを失わせる可能性もある。
そもそも人生には、「リスクゼロ」という選択肢は存在しない。存在するのは、どのリスクを引き受け、どのリスクを減らすのかという「リスクの選択」だけだ。
今回の論考では、在宅医療における安全を、この視点から考え直した。
重要なのは、「何かあったらどうするのか」という問いだけに支配されないことではないか。
在宅療養の対象となる人、とりわけ人生の最終段階に近づいた人にとっては、将来「何かが起こる」こと自体を完全に避けることはできない。
「何かが起こるまでの時間を、その人がどう生きたいのか」
私たちが向き合うべき真の課題はここにあるのだと思う。
もちろん、これは無防備にリスクを許容せよ、という意味ではない。
医学的にどの程度の危険があるのか。重篤度はどの程度か。回避可能なのか。代替手段はあるのか。そのうえで、本人は何を望んでいるのか。その選択はQOLにどう影響するのか。家族や支援体制はどうなっているのか。
医学的適応、本人の意向、QOL、周囲の状況という複数の軸から評価し、「どのリスクなら受け入れられるのか」を本人・家族と一緒に考える。これはまさに共同意思決定(SDM)やACPのプロセスそのものである。
そしてもう一つ大切なのは、専門職の謙虚さだと思っている。
医療者が直接関与できる時間は、その人の人生のほんの一部にすぎない。生活の大部分を支えているのは本人であり、家族であり、友人であり、地域である。安全を理由に医療者が人生を過度に管理してしまえば、それは安全を守っているようで、人生の選択肢を奪っている可能性がある。
80%のリスクがあっても何も起こらないことがある。わずか5%のリスクでもそれに該当してしまう人もいる。専門職の役割は「統計的な正しさを押し付けること」ではなく、不確実性を説明し、本人の価値観を理解し、その人が納得できる選択を支えることであるのではないか。
この『medicina』の特集が優れているのは、この問題を在宅医療だけの特殊論として扱っていない点だ。
診断エクセレンス、ポリファーマシー、在宅医療、デジタルヘルス・ハイブリッド診療、組織文化や教育、ケア移行まで、プライマリ・ケアの現場で起きている「安全と質」の問題を多面的に取り上げている。
患者安全を個々の医療者の注意力や責任感の問題に矮小化せず、システム、チーム、コミュニケーション、テクノロジー、そして患者本人とのパートナーシップの問題として捉え直しているところに、この特集の真の価値がある。
病院の中で発展してきた「患者安全」を、生活の場へどう拡張するのか。
事故を減らすことと、本人らしく生きることを、どう両立させるのか。
超高齢社会の医療に関わる人であれば、一度立ち止まって考える価値のあるテーマだと思う。
自分の原稿を紹介するのは少し気恥ずかしいが、今回の『medicina』は、自分の担当部分を抜きにしても、プライマリケアに関わる医療者にはぜひ通して読んでもらいたい一冊である。綿貫先生がこのテーマを「患者安全」という狭い枠に閉じ込めず、これからの医療の質そのものを問い直す企画として構成されたことに、改めて敬意を表したい。
https://www.igaku-shoin.co.jp/journal/402
佐々木淳
