繁田先生からいただいた2冊の新刊を拝読している。
認知症の人、そしてご家族おひとりおひとりと時間をかけて丁寧に対話を重ねてこられている。
自分はこの人たちのことを何も知らないというニュートラルのスタンスで対話は始まり、その苦悩に共感し、その後悔を共有する。病気そのものに効果的な治療が存在するわけではない。しかし、繁田先生との対話を通じて、当事者とその家族は、認知症に対する恐怖と偏見を緩和し、それぞれの人生の価値を再発見していく。まさにことばの処方箋だ。
Channel News Asiaで僕のコメントがニュースになったとJaniceから教えてもらった。2030年に向けてヘルスケアはどうあるべきか、そんなテーマのシンポジウムに登壇した直後、インタビューに捕まった。(トイレを我慢しながらのコメントだったので、英語の稚拙さに加えて早口で聞き取りにくいのはご容赦ください汗)
その文脈に延長線上で、今年のAgeing Asia では「リハビリ」と「緩和ケア」の2つがフォーカスされた。しかし、いずれのタームも日本での使われ方とは意味とは少し異なる。
リハビリ:社会参加を継続できるよう支援すること
緩和ケア:誰もが感じる「あらゆる苦痛」を緩和すること
日本では個人因子(体質・病気・障害)に対する医学モデル的アウトカムにフォーカスされることの多いリハビリだが、ここでは本人が残された機能の中でいかに社会参加を継続するか、QOLを最大化するかにフォーカスされている。
日本ではがんや心不全に対する「症状緩和」がやはり医学モデル的視点で語られることの多い緩和ケアだが、ここでは、老化や認知症、あるいは支援者が感じる苦悩も緩和ケアの対象とされ、そこに緩和ケアの専門職が積極的に関与する。
FIMスコアの改善も、オピオイドによる確実な疼痛コントロールも、あくまで手段であって目的ではない。リハビリも緩和ケアも、真の目的は平穏で幸せな日々を取り戻すことにあるはずだ。
そのためには「本人にとっての幸せな状態」をまずは理解する必要がある。しかし日本では、機能低下があるからリハビリ、疼痛コントロールが必要だからホスピスホーム、本人の意向が最優先されない選択が専門職+家族によってなされることが少なくない。これは本人にとって最適なケアとは到底言えない。
ケア(医療を含む)の目的は何なのか。
まずは本人に関心を持つ、本人を知ることから始める必要があるのではないだろうか。
繁田先生の2つの新しい本は、そんな当たり前のことを気づかせてくれる。
改めて昨日の繁田先生、三ツ矢さんとの対話を反芻する。
多様性という言葉を、繁田先生は「つまるところ『人』」、三ツ矢さんは「一人として同じ人はいない」、それぞれが日々の認知症診療、LGBTQ+の啓発活動に関わる中での借り物でない解釈なのだと思う。
誰もが唯一の存在。
一つとして同じ人生は存在しない。
単純化すれば治療計画やケアプランは簡単に作れる。
しかし、それによって奪われる小さな凸凹に、本人にとっては大きな意味があることもある。
「自己決定の尊重」「自己資源の活用」「継続性の維持」
私たちのなすべき仕事の三原則を改めて見直す。
生産性やテクノロジーの実装を語る前に、まずは足元を固める必要がある。改めてそんなことを思う。
アルツハイマー型認知症の人の対話/認知症の精神療法2
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