型を破るなら、まず型を学ぶ。
健介くんから「ラブレター」を受け取り、偏屈な僕はまたいろいろ考える。
彼が「深夜のラーメン事件」で炎上した時、僕は彼が「正しい」と判断した。
リプライの多くは専門職によるもので、病院で食事を止められている人に、無造作にラーメンを食べさせて窒息でもさせたらどうするつもりだ、リハ職の風上にも置けねえ、みたいな雰囲気だった。
でも、彼は(たぶん)無造作にラーメンを食べさせたわけじゃない。
病院における嚥下機能評価はあてにならないことがあることを知っていて、 その人の摂食嚥下機能をアセスメントできて、その人の人生における優先順位を把握していて、そして何かあったとしても対応できるだろう、という見通しがあって、「深夜のラーメン」にチャレンジしたのだ。臨床倫理的には適切な判断だ。
一見、型破りのようで、実は型どおり。少なくとも型なしではない。
それを無意識にできるのが彼の才能。
そして、そこを吹っ飛ばして発信するから、無謀だ!という批判を受けることとも多いが、健介くんは破天荒に見えて、ケアに関しては実は基本をきちんと押さえている。
しかし災害支援に対しては、ちょっと違うように感じる。
地割れした能登半島を車で進んでいるという報告には、正直、少し眉をひそめた。
たまたま無事だったからよかったものの、事故を起こして自分が支援される側になっていた可能性だってある。
リハビリには専門性が求められるように、災害支援にも専門性が求められる。
食止めのじいちゃんにラーメンを食わせることは、彼の専門性だ。しかし、地割れした被災地に車で乗り付けるのは、それと同じように評価はできない。
無免許運転は、事故を起こさなかったから結果オーライ、ではない。なんだ、いけるじゃん、と思って同じことを繰り返せば、いずれ事故は起こる。自分自身だけでなく、周囲に被害を及ぼすこともある。
健介くんのいうように、制度の隙間から溢れ落ちるニーズは確かにある。
そもそも制度はすべてのニーズをカバーする前提にはなっていない。それを「カタマリ化」できれば、制度として動く。
例えば、今回はかなり早期から栄養も口腔もメンタルもモバイルファーマシーも専門職チームが動いている。予測可能なニーズに、それがニーズとして顕在化する前にアプローチする。これはこれまでの災害支援のフィードバックがきちんと行われてきた証だ。今回は特に本当にスマートだと思う。関係各位には改めて感謝を。
この荒い網の目にかからないニーズは無数にあるだろう。
谷間にはそれがたくさん転がっている。山の上からは見えないそれを拾い上げて、そして制度に依存せずにニーズに応えたい。
大切なモチベーションだと思う。
僕は、健介くんがいうように、仕事柄、山から景色を見ていることが多いが、実は週に3.5日は「谷間」を這いずり回っている。
制度がカバーできないニーズがある。これは災害時だけの話ではない。平時だって同じだ。制度を組み合わせてもなんともならない、もどかしさや悔しさを感じることは少なくない。これを解決したいという思いが、僕が20年間在宅医療を続けているエネルギーの1つだ。
ただ、どこまでを「支援」の対象と考えるのか、これも大きなテーマだ。
そもそも日々の暮らしはその人の人生の一部。
支援者が神輿を担ぎ続けるのであれば、それはその人の人生ではなくなる。
自助、互助、共助、公助。
どのバランスがその人にとって、あるいは社会にとって最適なのか。
これは平時のみならず、災害時においても同様に議論されるべきだろう。
能登震災の際、千葉県の熊谷知事が、被災者支援のすべてを公的支援でカバーせよ、という社会の風潮に対して、敢えて疑義を唱えた。
地震で家屋が倒壊した。人知を超える自然災害。確かに助けが必要えだ。しかし、住宅被害のすべてを公的支援で賄うのだとしたら、地震保険に入る必要などなくなる。災害に対して、各個人・各世帯もそれぞれの努力と備え=自助が求められるのではないか。そんな内容の発信をして、残念ながら「炎上」したが、僕は熊谷知事の言う通りだと思う。
また、日本では避難所の写真が上がるたびに、日本では「イタリアの避難所はもっと快適だ」みたいな批評する人が出てくる。被災地に支援が足りないというのだ。
しかし、足りないのは実は公助ではない。互助だ。
例えば体育館にパーティションを設置する、段ボールベッドを配置する。これは市役所や消防署の職員の仕事だろうか。彼らの専門業務も災害で膨張している。その中で「市民サービス」をさらに拡充せよ、というのはいかがなものか。そもそも彼ら自身も市民であり、被災者なのだ。
イタリアでは、避難所のパーティションを組み立てるのは住民自身だ。
彼らは災害時のトレーニングを受け、事前に「災害支援ボランティア」に予備役として登録する。そして災害時は指示命令系統に従って動く。イタリアは日本ほど自然災害は多くない。しかし、それでもイタリアにはこのような互助の仕組みがある。
日本も避難訓練はしているかもしれない。しかし、どれほどの住民が参加しているだろう。また、災害時に避難所をどう開設し、どう運営するのか、主体的に予行演習しているコミュニティはどれくらいあるのだろう。健介くんの関わる藤沢や鎌倉では、住民はパーティションの組み立て方を学び、「安全に活動できる災害時ボランティア」としての研修や事前登録などが行われているのだろうか。
谷間のニーズを拾うのは、災害支援者の仕事ではないはずだ。
それは地域住民の、地域の専門職の仕事。そして、そのニーズは平時から存在している。同じ暮らしをしている人は一人としていない。
みんなニーズが違う。
災害時には不足している部分が顕在化する。
顕在化したものに対しては対応する必要がある。しかし普段とは違う状況において、安全な支援をするためには、災害支援の専門性か、あるいはそうでない人でも安全に支援ができる環境が整えられているか、いずれかを満たす必要がある。
例えば、法人間の連携で医療機関や高齢者施設のスタッフ不足をカバーする、という支援はあってよいと思う。もちろん必要最低限の災害支援の知識とスキルは必要だが、安全な支援環境とレポートラインが確保できる。でも、そうでないなら、今のフェイズでは素人はやはり被災地に出向くべきではないと思う。どうしても行きたいなら「無免許運転」ではなく、免許を取得してからにすべきだ。
「顕在化したニーズ」についても、それが真のニーズなのか冷静に見極める必要がある。例えば「頭痛が心配なのでMRIをお願いします」という患者は多いが、そのまま検査をオーダーする医者はいない。患者の個人因子や症状からその医学的必要性を判断する。
もちろん被災者や被災事業者の力になりたい。だけど、特に道路交通キャパシティも含め資源の限られる被災地においては、ウォンツやデマンドに対応する余力はないはずだ。それに対応したために、本物の脳卒中の診断が遅れることになれば本末転倒だ。
そうなると、結局、優先順位は、人命救助、水や食事の確保、衛生環境の確保、プライバシー・休息・睡眠環境の確保・・・現時点では公助がカバーしている領域が大部分になる。
これらがすべての被災者に確保されて初めて、付加的な支援を検討する、というのが然るべき順序であるように思う。いまの段階で細やかなニーズを外部から拾いに行くのは、やはり時期尚早であるように思う。
食事の支援、例えば炊き出しくらいはできるかもしれない。芸能人がカレーを配る。災害時によく見る絵面だ。しかし、そこにも実は知識と手技が求められる。過去にウェルシュ菌や黄色ブドウ球菌による集団食中毒が被災地で発生している。衛生管理が難しい場所でいかに安全に食事を提供するか。そんなの簡単だろ、と思っている人は関わらないほうがいい。ここにももちろんガイドラインがある。
そして、支援は自助・互助を妨げるものであってはならない。
将来的な自立を視野に、計画的に行われるべきものだ。そのためには共助・公助との役割分担の設計も含め、制度と無関係ではいられない。ここにも方法論と技術が求められる。
被災地の、被災者の役に立ちたい。
その思いは本当に素晴らしい。
そのモチベーションをへし折るようなことは絶対にしたくない。
だけど災害支援とは、被災地に飛び込むこと(だけ)ではない。
DMATやその他の専門支援チームのメンバーが離れた持ち場を守ることも、マンパワーが低下した救急外来に負担をかけないようにすることも大切な支援。
道路状況がよくないうちは、公的支援がスムースに進むように、不急の外出を避けるのも大切な支援。
そして被災した自治体に義援金を送るのも、祈りを送るのも大切な支援。
疲れた支援者が無理をせずに持ち場を離れるのも、大切な支援。
正解はない。
だけど、私たちには経験があり、経験を通じた学びがあり、そしてそれらは言語化して共有されている。
そして、それらを学ぶ機会もある。支援者として登録しておくこともできる。
型を破りたければ、まずは型を学ぶべきではないかってことは健介くんにはもう伝えたけれど。災害支援も、あなたが医療でやってきたようにやれないものだろうか。
医療には4つの倫理原則がある。
自律尊重: 患者が自分の意思で治療法などを決める権利を大切にし、邪魔しないこと。
無危害:患者に余計な苦しみや害を与えないようにすること、危険を防ぐこと。
善行:患者にとっての利益や最善のケアを積極的に提供すること。
正義:すべての患者を公平に扱い、限られた医療資源を正しく分けること。
患者を「被災地」に置き換えて考えてみる。
その正義は、誰にとっての正義なのか。
まあ、僕も自他ともに認める反多勢派なので、誰かが作った大義名分は正直気に食わない。ガイドラインを無視することもあるし、常に正しい選択をしているわけでもないことも自覚している。経営判断に関しても、それが最も合理的な判断ではないとわかっていても、譲れないものがある。
健介くんの、それでも誰かが困っているのをじっと見ていられない、というのが、彼が彼であるためのエネルギー源もあるように思うし、事故を起こしたら起こしたで、その経験をまた燃料にしてしまうに違いない。
そんなんじゃだめだろ、というのも含めて、それが健介くんの魅力だし、彼には今のままでいてほしいと思ってもいる。
佐々木淳