“希望が叶わない”のではなく、“叶える設計になっていない”
日本では年間死亡者数が約160万人と過去最多水準。
中でも「最期を自宅で迎えたい」と考える人は約4割いる。
しかし現実は厳しい。
終末期に在宅医療を受けた人は推計で1割弱にとどまる。
昨日のNHKは、自宅で死にたいという希望と現実(在宅医療の利用)が大きく乖離していることを伝えていた。
ニュースを読みながらいろいろ考えた。
https://news.web.nhk/newsweb/na/na-k10015091881000
日本人の多くは病院や施設で最期を迎えている。
報道はここに3つの構造的ネックがあるとする。
①医療提供体制の不足(在宅医療を担う医師・機関が十分でない)、②家族・介護側の負担(急変対応や介護負担への不安が大きい)、そして③制度・連携の問題(医療・介護の連携や支援体制が不十分)だ。
僕はちょっと違うと思う。
在宅医療は充足しつつある。
人口の少ない自治体では、いまだに在宅医療が機能していない地域もある。しかし、日本人の92%は都市部で暮らす。地方都市含め、都市部には在宅医療が存在しない地域はほぼ存在しない。
もしボトルネックを3つ挙げるのであれば、①介護力と看取りに対する理解不足、②余剰な病床の存在、そして③意思決定支援だ。
①介護力の不足は深刻だ。
家族介護力に期待できない状況においては、社会的介護の役割が大きくなる。
しかし、介護保険サービスだけでは変化していく在宅でのケアニーズに柔軟かつ十分に対応できないことがある。
②病床は常時3割が空床、そして病床稼働率の低迷は病院赤字の主因だ。
本来であれば医療依存度の高い患者を入院させたい。しかし、空けておくくらいなら、治療を目的としない患者を受け入れることに大きな抵抗はない。
一部の高機能病院を除けば、患者はいつでも入院・再入院ができる。
③本人の意向が最優先されない
頑固に意思表示を続ければ実現できる可能性は高くなる。しかし、家族や介護者の不安や負担を理由に進められる施設入所や入院を拒み続ける気力と体力がなければ、その実現は遠のく。何のためにACPやってるんだろうと無力感に苛まされることも多い。意思決定支援は意思実現支援をもって完結する。ケア力の都合で最期が決まるのなら最初からACPなんて必要ない。
ここには看取りに対する理解不足・経験不足もある。家族の誰かが看取り経験者であれば、実は特別に大変なことではないというのを知っている。他の家族を説得できる。介護職が看取り援助の経験が豊富なら、安心感のあるケアの提供を継続してくれる。
しかし、そうでなければ「こんな状態で高齢二人暮らし(または独居)でおいておけない」「こんな状態で自宅でケアを続けるのは不安だ」と思ってしまう。
死に場所の希望と現実のギャップが大きいのは、確かに構造的な問題だ。
しかし、それは在宅医療が足りないからではない。
「死の場所の自己決定」が制度的に担保されていないからだ。
つまり「希望が叶わない」のではなく「叶える設計になっていない」 のだ。
リソース集約型の介護サービス、依然として病院中心の医療モデル、そして家族や介護者の理解とケア能力を前提としている時点ですでに不公平なのだ。
もし本気で「自宅で最期まで」という希望を叶えたいのであれば、「医療と介護の連携」とか、ふんわりしたスローガンではなく、そのための明確な制度設計が必要だ。
一番重要なのは、在宅ケア力の充実だ。
介護サービスは地域密着型を中心に再構築すべきではないか。特に“訪問×通い×泊まり”の複合的機能を地域密着で提供できる小規模多機能・看護小規模多機能をもっと普及させるべきだ。これが「きちんと機能すれば」入居型施設の整備は最小限で済むはずだ。現状、介護報酬の設定は他の包括報酬系と比べてかなり厳しい。柔軟なサービス提供体制を確保するために、多少のバッファが持てる程度の報酬の見直しも必要ではないか。
ケア力が充実すれば、家で最期まで過ごせる確率は大きく高まる。
家族の不安に伴走しながら、本人の優先順位をみんなで確認する。ACPをするからには、本人の真の意向をしっかりとキャッチし、その実現を支えるのが医療・ケアを担う専門職の責任だろう。
本人の意向を無視し、家族の不安をくすぐり、病院や施設に誘導する。一部でよく見る風景だが、これは対人援助の対局だ。倫理原則に反しているし、基本的人権の侵害でもある。
大切なのは、本人の選択が尊重されること。
それを支えるためには制度面の補強が必要だ。
一方、時代の流れとともに、家族の在り方も、住居の在り方も変わってきている。
「自宅で最期まで」に固執する人は実は徐々に少なくなってきているように感じる。むしろ支援者の側に固執があるようにも感じる。
たくさんの患者さんたちと話をしてみると、言葉の定義のずれを感じることがある。例えば「住み慣れた自宅」には、単に物理的な「家屋」を超えて、そこにある(あった)家族や近隣との関係も含めての「すまい」としての意味を持たせている人が多い。
そして「自宅で最期を過ごしたい」の真意が、必ずしも「自宅で死にたい」ではないこともある。平穏な時間を十分に長く過ごすことができた。もう十分だ。家で死ぬことよりも、気を遣わずに静かに過ごせることを優先したいという人もいる。
あるいは家族がいなくなったがらんとした家ではなく、終の棲家として納得のできる場所に転居し、ひとけのあるところ(施設)で最期まで暮らしたい、という人もいる。家族に気を遣うことなく、必要なケアが受けられる。そこがその人にとっての「すまい」になるなら、それは決して悪い選択ではない。
最も重要なのは「本人・家族にとって平穏な時間をできるだけ長く自宅で過ごせること」。最期どこで死亡診断されたか、ではないだろう。もちろん結果として自宅で最期まで過ごせるのがもちろん理想だとは思うし、そのような看取りは増えてほしいと思うが、「自宅で死なせる」こと自体にそこまで固執する必要はないのではないか。
最近はそんなことを思う。
佐々木淳
