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治療をやめる自由と、生き続ける自由

救急・集中治療領域における「生命維持治療の終了・不開始」に関するガイドラインが示された。

僕はちょっと微妙な気持ちでこれを眺めている。
医療現場において、その判断過程を可視化し、独断や場当たり的な決定を防ぐ枠組みを整えること自体は重要だ。とりわけ倫理的葛藤を伴う終末期医療において、不開始や中止について一定の手続き的基準を持つことは、医療者にとっても患者家族にとっても大きな意味がある。

しかし社会全体がこのガイドラインを「妥当なもの」「歓迎すべきもの」と無条件に受け止める風潮に、少し違和感を覚える。
それはガイドラインの存在そのものに対するものではない。
どのような社会的文脈の中でそれが運用されるかに対しての漠然とした不安だ。

例えば神経難病の方々のように、身体的な機能回復は困難であっても生命維持によって社会参加や人間関係を継続できる人々にとって、この議論は単なる終末期医療の話ではない。そこでは「延命」という言葉が、しばしば否定的な響きを伴って用いられる。しかし当事者にとっては、それは「無意味な延命」などではなく、「生き続ける」という積極的選択である。

もし医療者の側に、無意識のうちに「この状態で生きるのはつらいはずだ」「そこまでして生きる必要があるのか」といった価値判断が入り込めば、医学的説明は容易に価値誘導へと変質する。特に情報の非対称性の目立つ分野においては、それは容易に生じうる(例えば、僕のような「対話のプロ」は、胃瘻は絶対に嫌だと意思表示している人に対して、一定の割合で「納得させて」胃瘻を造るという判断に導くことができるし、逆に、胃瘻を作りたいと意思表示している人に、それを「納得させて」諦めさせることもできる)。

さらに、医療費や社会保障費の増大が常に語られる社会状況の中では、「無益な治療を避けるべきだ」という合理的に聞こえる言説が、障害をもつ人々の生を暗黙のうちに「過度な負担」として位置づける危険もある。

もちろん資源配分の議論そのものを否定するつもりはない。
医療が有限資源である以上、社会的な議論は不可避。しかし、その議論が個々の臨床場面に流れ込み、「あなたが生き続けることは社会的に重い」というメッセージとして伝わるとき、それはもはや中立的な医療判断とは言えないのではないか。
Xを流れる無邪気な医療者や非当事者(現時点での健常者)の声を斜め読みしてみると、これが杞憂でないことを実感できると思う。

さらに重要だと思うのは「選択の前提条件」だ。
治療を中止するかどうかを議論する前に、その人が苦痛から解放され、社会的孤立から守られ、必要な介助や支援を受けながら生き続けられる環境が整っているのか。それができずに生きていくのはつらいよね、という強迫が生じることが容易に想像できる。
積極的治療を選択しなかった場合にも緩和ケアが保障されるとした点は非常に重要だし、評価したいと思う。

しかし、現状、多くのがんや臓器障害、難病の患者さんたちは十分に緩和されない苦痛とともに生きている。そして、その「緩和ケア」の範囲を身体的苦痛から、心理的、社会的、スピリチュアルな苦痛を含めた全人的支援に拡げたとき、日本の緩和ケアの現状は、けっこうお寒いのではないかと思う。
その基盤が十分でないまま「中止」という選択肢だけが整備されれば、それは自由な選択ではなく、事実上の追い込みになり得る。

繰り返しになるが、僕が危惧するのは、このガイドラインそのものに対してではない。このまま社会が深い検討を経ずに歓迎ムードに流れることで、一部の人々にとって不利益が生じる可能性が見過ごされるのではないか、ということだ。
若年で重度の障害を抱えながら生きる人々、高齢で複数の疾患を抱えながら生活する人々が、「そこまでして生きなくてもよいのではないか」という空気の中で意思決定を迫られるとすれば、それは私たちが目指すべき社会なのか。
治療の中止・不開始を適切に議論することと、生きる選択を支える条件を整えることは、本来不可分であるはず。これは尊厳死、安楽死をめぐる議論と本質的に同じだと思う。
どちらか一方だけを整備すればよいという問題ではない。

もちろん本人が望まない侵襲の高い治療が延々と継続される状況は避けねばならない。しかし、ガイドラインを新たに更新しなくてもそれは可能なはずだ。経管栄養の使用を停止することは以前から普通に行われている。人工呼吸器や透析の不開始は一般的だ。そしてその中止も不可能ではない。

ではなぜ今、新しいガイドラインが必要なのか。
「判断基準の標準化」はもちろん重要だが、医療者・医療機関が期待しているのは「どうすれば訴追されないかの基準を明確にしてほしい」ということだろう。

しかし、そもそも「望まれない積極的治療」が行われているのは、家族がそれを強く希望するからだけではない。治療の引き際について家族との対話(家族の理解)が十分にできず、結局できるところまでやった、という医療者側のアリバイのための選択の結果であることも少なくないのではないか。
結局のところ、コミュニケーションがきちんとできなければ、このガイドラインだって本来の意味ではきちんと機能しないはずだ。

医療者・患者・家族の相互の信頼関係に基づいた判断をすることが難しい。だからこそフレームワークの中で科学的根拠に基づいて意思決定のプロセスを進めましょう。なんだか人生の最終段階の決定がさらに「医療化」されてしまうのではないかという違和感が個人的には拭えない。
もちろんナラティブな意思決定のプロセスにもフレームワークは存在している。それを言語化し、普遍化できていない我々の責任もあるのかもしれない。そして信頼して相談できる「かかりつけ医」が機能していない現状をシステムで代替するには、これしか方法がないのかもしれない。
いま僕にできるのは違和感の表明だけ。何が理想的な制度設計なのか、具体的に提示できる力はない。

僕はたくさんの「不治の病」とともに生きる人たちと関わってきたので、自分自身の価値観に相当の偏りがあることはもちろん自覚している。ガイドラインが作られること自体も必要なことだと認識している。

ただ、少なくとも「歓迎」する前に、誰にどのような影響が及び得るのか、もう少し慎重の検討してもよいのではないかと思う。
少なくとも「治療しない選択」を保障する以前に、「治療する選択」に対して無言の圧力がかけられない仕組み・工夫は必要ではないか。そのためには「治療の終了/差し控え」のガイドラインを単走させるのではなく、身体的苦痛の緩和にとどまらない「全人的な緩和ケアを受ける権利」をまずは保証したうえで、その中の1つの選択肢として位置付けるべきではないか。そしてガイドラインは、法的には「免罪符」になりうるかもしれないが、運用によっては本人・家族に対して侵襲性があるという点も認識する必要がある。
医療と社会がともに持つ無意識の前提を点検し、弱い立場に置かれやすい人々の声を置き去りにしないために、私たちが持つべき「最低限の慎重さ」について、少しだけ考えてみてはどうだろうか。
そして蛇足になるかもしれないが、偏差値で医者を作る時代はもう終わりにしたほうがいい。

SNSには患者や高齢者、苦悩する家族に対して陰性感情をむき出しにする医療者が溢れている。知識や経験、技術の一部ですらテクノロジーで補完できる時代、医療者のコアコンピタンスとしての「人間性」にもう少しフォーカスしたほうがよいのではないかと思う。
なお3月27日までパブコメ募集中とのこと。
https://www.jaam.jp/info/2026/info-20260227.html

佐々木淳

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