地域医療と介護の未来を考える。
高山先生の話はコロナ対応の振り返りから始まった。
緊急事態宣言、一斉休校、不要不急の外出制限・・確かに感染者数や死者数を大きく抑えることができた。しかし、それによって失われたものがある。その時にしかできなかったこともある。命を守るためであれば何を犠牲にしてもよい、という考え方は果たして正しいのか。高山先生は行政の立場で地域と関わる中で、盲目的な感染対策の非合理性と、感染拡大の背景に連なる社会の弱点、そして弱者を取り残しがちな社会の仕組みのピットフォールにフォーカスする。
子供との継続的な交流を行ってきた高齢者施設。子供たちの訪問は高齢者にとって何よりの楽しみ。では、学校で感染拡大が生じたとき、子供たちとの交流を継続してもいいのか。施設全体の感染対策を考えれば、外部からのハイリスク集団との密な交流は避けたい。しかし、それは高齢者の楽しみを奪うことでもある。高山先生は交流を続けることに伴うリスクについての情報提供をするにとどめ、判断は高齢者自身に委ねた。結果、高齢者は自ら選択で交流を一時停止することにした。
一方、日々のケアの現場では、本人の意向によらない意思決定がしばしば行われています。一人暮らしを貫いてきた高齢女性が発熱。基礎にあるのは加齢による衰弱の進行。自宅で最後まで過ごしたい。状態のアセスメントのためにまずは入院を、と考える担当医。しかし入院すれば退院のタイミングを見つけられなくなるかもしれない。高山先生は病院から地域にアウトリーチし、つながりの中に本人の意向を共有し、最後まで本人の想いを尊重した在宅ケアを継続する。
マクロ(社会全体を俯瞰する視点)、メゾ(地域コミュニティ)、そしてミクロ(個人)。異なる3つのレイヤーにおける意思決定のサンプルが提示された。
僕が高山先生の話を聞いて感じたのは、意思決定のプロセスの重要性。
何か正解なのか、それは各個人の価値観によって異なる。だからこそ、納得できる選択であることが重要になる。そして納得できる選択のためには、その選択にいたるプロセスが重要なのだ。
国民に厳格な行動制限の前に、私たちの社会における優先順位をみんなで考える機会があってもよかったのかもしれない。知らない誰かの命を守ることよりも、経済活動を継続することのほうが、いましかできない経験をすることのほうが重要だ、そう考える人はたくさんいた。最終的には政治のリーダーシップで決断が行われることが必要だが、その前に適切な情報を国民に提供し、国民自身が考える機会があってもよかったのかもしれない。
感染が持ち込まれたら大変だから外出させない、面会させない。確かにこれで救われた命もあるかもしれない。しかしそれによって失われたものもたくさんある。要介護高齢者はフレイルを加速させた。認知症が進行した人もいた。人生に残された最後の数年間。孫に対面することもかなわず旅立っていった人もいた。入院中、家族に看取られることなく、一人で最期を迎える人もいた。近い将来、命が終わることがわかっている人に対してもここまでの対応が必要だったのか。
そして人生の最終段階の意思決定。多くの高齢者が医療の引き際を判断できず、最後まで病院で治療を受けながら病院で亡くなっている。一方、それを避けるべく推進されているACP。その名のもとに行われているのは「無意味な延命治療など誰も望まない」という模範解答への誘導尋問と決議。何が本人にとっての最善の選択なのか。伴走しながら一緒に考えてくれる専門職は少なく、その意向が最期まで関係者にきちんと共有されることも少ない。
高山先生の3つのレイヤーのお話は、専門職が社会に対して、自分が関係する集団に対して、そして直接的に関わる個人に対して、私たちがどういう態度で臨むべきかということを示唆してくれたように思う。
また、高山先生は沖縄中部における急性期在宅医療の取り組みについても紹介してくれた。新型コロナに感染した患者を病院に入院させるのではなく、自宅・施設で医療的ケアを継続する。第五波移行の首都圏での取り組みと同様だが、最大の違いは主治医が在宅医ではなく病院、主たる介入者が医師ではなく看護師であるということ。医師がアウトリーチしないことも多いという。
高齢者は入院すると高頻度に入院関連機能障害(入院による身体機能・認知機能の低下)を起こす。文献によると入院治療群は23%が再入院するのに対し、在宅治療群は再入院のリスクが7%まで減少する。急性期在宅医療はコスト面ではもちろん、患者のQOLの面でも利益が大きいことは私たちも実感している。
日本では何かあれば救急車で病院へ、というのが標準的な判断だが、それは果たして「患者の真のニーズ」を満たしているのか。本当のニーズは、救急車の世話にならずに穏やかな生活が継続できること、そして何かが起こっても「入院しない」「自宅でも治療できる」という選択があることではないか。
患者の意志決定支援においては、選択の支援の前に、まずは選択肢があることが重要ではないか。そういう示唆であるようにも感じた。
高山先生は、医療介護専門職に対して、その支配的な存在感について自意識を持つべきであるとおっしゃられた。それは個々の患者に対してのみならず、地域に対してもリスペクトを持つべきであると。
少子高齢化、急性期以外のベッドの不足、ニーズの複合化・複雑化、医療ニーズの高圧状態、生産年齢人口の減少と外国人の増加・・・もちろん人材や財源の不足の問題も逼迫している。このようなVUCAな状況の中で、私たちはどうあるべきなのか。
高山先生はそこを言語化されることはおそらくあえて避けられたのだろうと思うが、すべての参加者が、それぞれ具体的なイメージを描くことができたと思う。
正解はだれにもわからない。
でも、納得のできる選択のために。
私たち自身も、自分たちの在り方について考えて続けたいと思う。
高山先生、重要な問題提起をありがとうございました。
そして学びを深め合った参加者の皆様、またお会いできることを楽しみにしています。
週末の京都はちょうど梅雨入りでした。
しっとりと雨に濡れた古都には、また別の美しさを感じました。