一人として同じ人はいない

今日は毎年恒例・長岡京でのタケノコ狩り(僕は間に合いませんでしたが)&BBQ、それから京都テルサに移動して「多様性」をテーマに尊敬する繁田先生&声優・俳優の三ツ矢さんと3人で1時間の対話をしました。

「多様性のある・・」とか「ダイバーシティ推進」に、マジョリティがマイノリティを受け入れてあげよう的な上から目線を感じるのは僕だけではないと思います。

そして「多様性の受容」というのが、マジョリティ(平均的・大多数)がマイノリティに「標準化」を求めるという形で行われることも少なくありません。

僕自身、マジョリティとしての側面(身体的健常者・標準体型・男性・団塊ジュニア・・・)を持ちつつも、マイノリティとしての側面(未婚の50代・食虫植物好き・お酒が飲めない・人には言えない〇〇・・)もあります。後者の立場で日々の関わりの中で「多様性として認めてほしい」と思うことはままあります。

しかし、たとえば在宅ケアの現場でも、「こんな不潔な空間で暮らしているのはかわいそう、キレイにしてあげないと」とか「認知症なんだから事故が起こらないようにきちんと管理しないと」とか「もうこの歳だから積極的治療はしないほうがいい」とか、こんな考え方をすることがよくあります。これも、いわゆるマジョリティの価値観にその人を無意識に従わせているのかもしれません。

一つひとつの違いを云々するのではなく、それぞれが自分らしく生きられる社会であればいいのではないか。

多様性を受容する=苦手な人とも無理に付き合う、ではなく、誰かを不幸にするようなことがない限りは、誰もが自分の好きなように生きる(苦手な人とは無理に付き合わない、いやなことを無理にやらない)、それでいいのではないか。

ダイバーシティを推進する=LGBTQ、障害者など、特定の集団に区分された人を一定割合でチームに混ぜる、ではなく、そもそも一人ひとりが違った人間。どの集団も、どの組織もダイバーシティではないか。誰かを不幸にしない限りは、それぞれの組織の性格に応じて、チームが組成されればいいのではないか。

もちろんヘイトのように憎悪を増幅するものは多様性として許容することはできない。しかし同性婚は(違和感を感じる人がいたとしても)幸福になる人はいても、それで社会の不幸が増えるわけではない。

難しく考えない。

ただそれだけのことなのではないか。

1時間の議論は、それぞれの家族を含む個人的なバックグラウンドや経験などを共有しつつ、それぞれが一人称と三人称の両方の立場で多層的に進み、なんとなく納得のできるところに落ち着いたような気がします。

ぜひみなさまもアーカイブをご覧いただけたらと思います。

そのあとは、京都・関西の旧知の仲間たち、そしてたくさんの新しいメンバーと4時間近くじっくり語り合いました。よりよい未来をどう実現するのか、そんなテーマでここまで熱くなれる人たちがいる。なんかワクワクしました。