佐々木理事 2023年 5月5日 Facebook記事より
AIは既に人間の医師の診断力を凌駕しつつあった。
眼底や病理、内視鏡、放射線など画像認識の領域では。
そして、いずれAIの診断力が画像認識以外の領域で自分たちの能力を超えていくことは多くの医師たちにとって想定の範囲内だったと思う。
それでも人間の医師には存在理由がある。
医療の目的は患者の苦悩を癒すこと。診断や治療はそのための手段にすぎない。無味乾燥なテクノロジーは、医師の仕事を補完することはできても、置換することはできない。
そう思っていた。
しかし、この認識は必ずしも正しくないかもしれない。
195件の患者の質問に対して、人間の医師とAI(ChatGPT)のそれぞれの回答を比較すると「質」と「共感力」、その両方でChatGPTが人間の医師に圧勝したのだ。
実はこの結果に驚きはなかった。
すでにChatGPTを使っている方は実感しているかもしれないが、このような大規模言語モデルのAIは、私たちの感情に配慮したやりとりがとても上手だ。
一方で医師のコミュニケーションは一言でいえば少し雑だ。
その言葉が患者にどのような影響を及ぼすのか、十分に考慮したとは思えない発言に出くわすこともある。患者との対話において自らの感情をむき出しにする医師も少なくない。
高度なコミュニケーション力に加え、数理的推論においても人間を突き放すAIに対し、私たち医師のこれからの存在意義は何なのか。
僕は2つあると思う。
1つは「言語化できない患者の思いをキャッチできること」。
AIのChatbotは、入力された言語的情報に基づいて判断を行う。しかし人間のコミュニケーションにおいて、言語的なものが担う割合は意外なほどに小さい。メラビアンの法則によれば、コミュニケーションの38%が聴覚的情報、55%が視覚的情報に依存し、言語的情報のウェイトはわずか7%にすぎない。
一人ひとりの患者に真摯に向き合い、五感を駆使した非言語コミュニケーションを通じて患者の真のニーズをキャッチする、あるいは真摯な対話の積み重ねを通じて、患者が自分自身の本当の課題に気づけるようそっとサポートしていく。
すでに一部のAIは聴覚的、視覚的情報から相手の精神状態や医師との対話をどのような感情で受け入れているかを評価する力を持ちつつあるが、僕は、カメラやマイクなどのセンサーだけではキャッチできない患者の「バイブレーション」は確実に存在するように思う。
それを感じ取れる存在であるなら。
医者はこれからも患者に必要とされ続けるかもしれない。
もう1つは「手当てができること」。
臨床は、病床に臨むと書く。その原点は「患者に何かをする(Doing)」ではなく、「患者とともにある(Being)」ということにあったはず。手をつかって身体を丁寧に触診する、痛みのある部位に手を添える、手を握って声をかける・・「手当てをする」というのは、何らかの治療をするという意味に加えて、手をあてるということそのものの重要性を示しているようにも思う。
前述のコミュニケーションにもつながるが、手は患者のバイブレーションを感じるための私たちのセンサーであり、患者に想いを伝え、エネルギーを送るためのコネクタでもある。
患者の観察者である以前に、一人の人間として、限りあるいのちを最期まで生き切れるように支援していく。これは在宅医療に留まらない、医療のアートとしての大切な部分であるはずだ。
AIやロボティクスは将来、言葉にならない患者の思いをキャッチする能力や、人間の体温や思いを伝える機能をも獲得していくことになるのかもしれない。
その時に医者に何ができるのか。
それは、テクノロジーを超える神的な診断や治療の技術なのか、あるいは診断や技術以外にところにあるのか。
手塚治虫は40年前に、天才外科医ブラックジャックとスーパー医療システム(AI)であるHALの対峙を描いている。自らを病気と診断しブラックジャックに治療を求めるHAL。互いに医師としてのリスペクトを示す姿は、未来の医師と医療AIの関係性を示唆しているのか。
AIの想像を超える進化のスピードを目の当たりにしながら、いままさに「未来」を生きているのだ、という感じがしている。