認知症になっても、最期まで住み慣れた場所で一人暮らしができるのか
理念は、Lifeが「幸せ・豊か」になること。4つの「いきる=生きる、居きる、活きる、逝ききる」
今回は、「居きる」と「活きる」をテーマに考えていきます。
2022年 4月14日 この研修会への想い 佐々木淳
在宅医療を通じて多くの認知症の人の暮らしを目の当たりにしてきた。現実問題として、認知症の人の選択が尊重されることは少ない。それでも意思表示が許されているだけまだいいのかもしれない。中には、判断力がないとされ、選択の場に同席することすら許されていない人も少なくない。
住み慣れた自宅での生活を続けたいと願っても、家族や専門職がリスクがあると判断すれば、本人が拒絶しても半強制的に高齢者施設へ、場合によっては精神科病院に送られることもある。しかし、それが自分たち自身の未来の姿であることを認識している家族や専門職はどれくらいいるのだろうか。
若年性アルツハイマー型認知症の当事者として、「認知症とともにあたりまえに生きていく」を当たり前にすべく精力的な活動を続ける丹野智文氏。社会学研究の中で自らも一人暮らしを実践しながら、家族に左右されない自由な生き方としての「おひとりさま」の老後、そしてその先のゴールとしての「在宅ひとり死」が合理的な選択であることを説く上野千鶴子氏。
僕にはこの2人に以前から聞いてみたい質問があった。「認知症になっても、最期まで一人暮らしを続けられると思いますか?」人生100年時代。
その後半の10年は、多くの人が認知症とともに生きていくことになる。早死にしない限りは、最期は誰もが多少なりとも認知症の状態であるはずだ。
僕自身も人生の半ばを過ぎて、猫を伴侶に生きている。自分の人生の最期はどうなるのだろうか。そんなことを考えるようになった。最期まで「自分らしく」いきるとは。丹野智文氏と上野千鶴子氏をお招きして、そんなテーマについてじっくりとお話をお伺いしてみたいと思います。専門職の方のケアの質を、というよりも、誰もがいつか認知症になる、当事者としてのスタンスで参加してもらえたらと思っています。
2021年4月18日 研修会をおえて 佐々木淳
認知症になっても、最期まで住み慣れた場所で一人暮らしができるのか。
上野千鶴子さんと丹野智文くんと、このテーマで語り合った。
問いに対する答えは「Yes」。
ただし、認知症に対する本人、家族、支援者の意識を変えることができれば+介護・福祉サービス以外の「依存先」をあらかじめ確保しておくことができれば。
そのためには、本人や家族が認知症を受け入れる力、少なくともそれを隠すのではなく、必要な時に周囲に助けを求めることができる、そんな関係性を築いておくことが大切。
そして、家族や支援者は、本人の真のニーズをしっかりとキャッチし、それに応えることができれば、本人は納得のできる生活・人生を送ることができるはず。
「そんなのキレイ事だ」そう感じる医療介護専門職や当事者の家族、そして当事者自身もいるかもしれない。
しかし、認知症は、誰もが経験する人生の1つのプロセス。「認知症を予防する」「治療する」の先に、「認知症とともに生きていく」時期が必ず訪れることを直視し、自分ごととして考えておく必要がある。
現状「認知症」というだけで、判断力がない、守らなければならない、と一方的に決めつけられてしまうことが多い。
本人のできないことばかりに着目をして、できること、やりたいことを無視していないか。その人らしさを閉じ込めて、事故が起こらないように生活を管理し、家族や介護者の安心感と負担軽減を優先していないか。いずれ自分がその立場になったとき、いまのような関わりをしてほしいと思えるか。
私たちの仕事は、生活の継続を支援すること。
どこでどんな生活をしたいのか。それは本人の選択が尊重されるべきだし、その生活の支援にあたっては、本人の強み・本人らしさが発揮できる環境を整えることが重要。
言うまでもないが、これが生活モデルの考え方だ。
私たちは認知症の人に対して、この基本的なことができているだろうか。
上野さんと丹野くんのハイテンポな対話に、ちょっと置いてきぼりを食らいつつ、考えさせられることばかりの90分間。思ったところを、何回かにわけて少しずつまとめていこうと思う。